
ボクは筋トレとお料理が大好きで「筋肉料理研究家」を名乗り、さらにパーソナルトレーナーとしても活動しています。
今ボクは、ボディメイクコンテストで優勝するため、毎日筋トレとお料理を頑張っています。
優勝なんてまだ「夢のまた夢」くらいに細いですが、初対面の人からは高確率で

と聞かれるようになりましたし、自分でいうのも何ですが
- 超ポジティブ
- メンタルバキバキ
です。
しかし、そんなボクも数年前までは…

ボクのビフォー
こんな感じで
- 身長169.5cmで体重87kg&体脂肪率30%で服のサイズXLでパツパツ
- 自殺に失敗して前歯を2本折る&唇は縦に真っ二つに割れて精神病院に入院
- 生活習慣&食生活メチャクチャで髪の毛ハゲかけ
- 鬱で精神安定剤が手放せない
- イヤなことがあるとすぐにお酒に逃げる
- 超ネガティブな性格で自分が大キライ
というドン底の状態でした。
ボクは筋トレに出会うまで、カラダもココロもコンプレックスまみれで、”超”がつくほどメンタルが弱い人間だったのです。
筋トレに出会うまでのいきさつ

ボクの人生のコンパスは狂いまくり
ボクが筋トレに出会うまでには、紆余曲折がありました。
学生時代スポーツ経験はゼロで、なんなら

と思っていました。
少し長くなりますが、ボクが筋トレに出会うまでのいきさつをお話します。
メンタル弱すぎ成長記

暴かれる激弱メンタル
ボクのメンタルの弱さは子供の頃・学生時代から顕著でした。
幼稚園時代
スイミングスクールに通うものの、親が引くほど泣きじゃくって、メンタルの弱さからすぐに辞める。
小学生時代
友達はみんなサッカーや野球のクラブに入っているのに、メンタルの弱さから何のクラブにも入らず家でTVゲームばっかり。
中学生時代
ソフトテニス部に入学するも、メンタルの弱さからほとんど幽霊部員で3ヶ月で退部し、学校も軽い登校拒否。
高校生時代
吹奏楽部に入学するも、メンタルの弱さから3~4回練習して3ヶ月で退部。
大学生時代
猛勉強して現役で大学に合格&入学するも、メンタルの弱さから1年で中退。
大学中退後
大学中退後はアルバイトをするのも怖くて、メンタルの弱さから半年くらいニート生活。

大丈夫かコイツ…?
とまぁ、書いていて自分でもイヤになるくらいのメンタルの弱さ!!!
そんな訳で、

その答えを見つけることは、ボクの人生における最重要課題だったのです。
漫才師を目指して

大阪NSC校舎…画像はイメージです。
ニート生活のあと、アルバイトを始めて1年半くらい経ったころ、ボクは一念発起します。
子どものころからの夢だった漫才師を目指し、あの吉本興業の養成所「大阪NSC」に入学することにしたのです!
入学金の40万円は、アルバイトの貯金だけでは足りなかったので、頭を下げて母親に借りました。
コレまでメンタルの弱さから、逃げてばかりだったボク。

と、必死で漫才のネタをつくりました。

ここまで広い舞台ではありませんでした
その甲斐あってか、NSC在学中にアマチュアの賞ながら初舞台で審査員奨励賞受賞、さらにM-1グランプリは1回戦を突破!
僕らの2年上の東京NSCには、あの【オリエンタルラジオ】さんなど、スゴイ先輩がたくさんいらっしゃって、当時の大阪NSCは闇の時代…。
そんな中でアマチュアながら賞を受賞したとあって

はずだったのですが…。

そううまく行かないのがボクの人生
そのM-1グランプリの1回戦の後にとある事件が…。
当時のボクは23歳で、相方は何と”中学を卒業したての16歳の男の子”。
ボクがボケで相方がツッコミでしたが、ネタは一言一句ボクが書いていました。
ボクも下手くそでしたが相方はもっと下手くそで、ネタ見せの授業(講師の方や他の同期の生徒を前にして、漫才やコントなどのネタを披露する授業)や舞台で、毎回ネタをトチる(間違える)のです。
そしてあろうことか、相方はボクが人生をかけていた【M-1グランプリの1回戦でもトチった】のです。
何百回、何千回とネタ合わせをし、台本を手渡して自主練もしたはず。
なのに人生を賭けて望んだM-1でもトチった。
ボクは怒って相方に、

と申し出ました。
相方は了承してくれましたが…その日から全く連絡がとれなくなりました。
NSCの社員さんも連絡を取ろうとしてくれましたが、結局行方はわからず。
当然2回戦には出場できなくなり、ボクは泣きながらM-1グランプリ事務局に出場辞退の電話をしました。

本当にこんな顔で電話していたと思う
コンビ解散後はどうしていいのか分からず途方に暮れました。
NSCの社員さんは

と仰ってくれましたが、憧れのM-1グランプリの2回戦に出場できなかったことがショックで落ち込み、ボクは徐々にNSCに通うのがイヤになってきました。
そしてついに…
メンタルの弱さからNSCにも通わなくなってしまったのです(卒業公演に出ていないので、ボクの最終学歴は大阪NSC中退(中退なので最終学歴とも言えません…というかNSC卒業って学歴なのか?)です)。
子供のころからあれだけ憧れた漫才師の夢も、

のです。
介護事業
漫才師の夢を諦めきれず悶々としていたとき、両親が介護事業を立ち上げました。
しかし、両親は銀行から借り入れをしていなかったので、最初は人を雇えません。
そこでボクは両親から

と誘いを受けました。
メンタルの弱さから、子供のころから心配をかけ、母親からお金を借りてまで入学したNSCも中退。
介護のことなんて全くわかりませんでしたが、

その一心で、介護事業を手伝うことにしました。
ヘルパーの免許を取り、調理師の免許を取り、福祉有償運送運転者や防火管理者の講習に行ったり、法律の勉強をしたり…
とにかく必死でした。

最初は手取り7万円
はじめのうちは、手取りの給料が7万円。
その中から大学の奨学金を返済し、当時飼っていた雑種の愛犬「リック」の餌を買っていました。
ごはんは施設の残り物を食べ、両親は会社に泊まり込みで働いていたので、ボクは実家でリックと二人暮らし。
お金はなく、同年代の友達と遊ぶこともできませんでした(NSCを中退していたのが恥ずかしかったこともあります)が、食べるものには困りませんでしたし、何より愛犬リックとの暮らしはとても楽しかったです。
しかし、介護事業を手伝っていると、

という思い(あくまでもボクの主観で、介護そのものを否定するつもりはありませんのであしからず)が募っていきました。
そして、ボクは自分の心に嘘をつきながら仕事をするのが苦しく、介護事業を手伝い始めて3年くらい経ったころに転職活動を始めました。
しかし…

そりゃ倒れるわ
会社に泊まり込みで働き、3年間1回も実家に帰って来なかった父が病に倒れ、入院することになったのです。
母は書類作成等の事務作業は全くできないので、父が入院すると会社の運営・経営業務を行える人間がいなくなってしまいます。そこで父が入院する間、ボクが父に代わって運営・経営業務を行うことになりました。
ボクは

と、快く父の代わりを引き受けました。
しばらくして父は無事に退院し、少しずつ会社にも出勤し始めました。
しかし、その数カ月後に父は自宅で倒れて救急搬送され…そのまま帰らぬ人となりました。
とてもショックでしたが、悲しんでいる暇はありませんでした。

本当にこのレベル
給与計算、介護保険料の請求、ケアプランの作成・調整、会合への出席、各自治体に提出する書類の作成、お客様への家賃・利用料の請求、雇用保険の手続きや社内文書の作成…
仕事は次から次へと降りかかってきます。
しかも、父も亡くなる直前はカラダに相当ガタが来ていたのでしょう。

正直、父が行っていた仕事の進捗状況を把握することも難しい状態でした。
しかし、従業員も国もケアマネージャーも自治体もお客様も、誰一人としてボクのことを待ってはくれません。
母は落ち込んでいるし、当時のボクには、頼れる人も、助けてくれる人もいません。

さらに、父が亡くなった約3ヶ月後、ボクの唯一の支えだった愛犬「リック」も父の後を追うようにして息を引き取りました。
それでも…ボクが泣くことは許されません。

と、当時は本当に必死で働きました。

今度はボクの番
そんな日々が続いて、1年ほど経ったある日。
会社で仕事をしていると、なんだか息苦しくなり、次第に手足がしびれ始めて、動けなくなってきました。
震える手で携帯電話を操作して母に連絡を取り、近くのクリニックに運ばれたところ、ストレスからくる「過換気症候群」だと診断されました。
そのころから、少しずつ精神安定剤を服用するようになり、それまでは嗜む程度だったお酒の量も、少しずつ増えていきました。
一筋の光が差し込むも・・・

ボクにも春が…!
そんな状態ながらも頑張っていたボクにも、春がきました。
結婚を前提にお付き合いする、可愛らしい彼女ができたのです。
ボク達はすぐに仲良くなり、毎週のようにデートを重ねるようになりました。
…ところが

※ちなみに当時は痩せていて、↑の写真のようではなかったです。
彼女が

ということは聞いていたので、ボクも

とは思っていましたが、結婚を前提にお付き合いをしているにも関わらず、
1年経っても手を繋ぐだけなのです。
流石に業を煮やしたボクが問い詰めるたところ、彼女は、

と告白したのです。

神様はボクに厳しい
彼女にはそんなつもりは無かったのかもしれませんが、ボクは裏切られたような気持ちになり、絶望しました。
父は死に、リックは死に、自分の心に嘘をつきながらも何とか仕事を続けられていたのは、彼女の存在があったから。
しかし、その一縷の望みであった彼女にまで裏切られ…
ボクの中で何かが音を立てて崩れ、ここから加速度的に精神安定剤とお酒・食べることに逃げるようになり、生活習慣も乱れ、みるみる内に太っていきました。
精神病院に入院(1回目)

心の中はこんな感じ
毎日のように精神安定剤を服用し、毎晩のようにストロングチューハイを4~5本飲み、毎週のように回転寿司に行っては20皿を食べ…そんな生活を送っていたボクは、あっという間に太りました。
鬱で精神安定剤が手放せず、性格はネガティブ、食生活も生活習慣もメチャクチャだったのでハゲかけていましたし、生きることがイヤで毎日

と考える日々。
仕事にはまったくやりがいを感じておらず、プライベートでも楽しいことは皆無。
挙げ句、母親にマルチの手伝いをさせられることに。
そして、遂にボクは決意します。

と。
じつは、ボクはいつでも自殺できるように七輪と練炭を購入し、車のトランクに積んでいました。
そして、それを実行に移そうと、夜中に車を走らせたのですが…
ボクは大切な事を忘れていました。

詰めが甘い
ボクは生まれてこの方、タバコを吸ったことも口にしたことがありません。
そのため、練炭に火を点けるモノを持っていなかったのです。
と思い、近くのコンビニに寄って、ライターと目張り用のガムテープ(これも忘れていました)を買ったまではよかったのですが…
ボクの記憶はここで一度途切れていて、次に気がついたとき、ボクは病院で唇を縫われていました。
実は、コンビニに寄った時点で精神安定剤とお酒を大量に服用していたため、その時すでに意識が朦朧としていたのです。
なのでボクは前歯を二本折っていますが、どうやって折れたのかも分かりません。
病院でボクは
とかなり暴れたらしいです。
そして翌日、精神病院に入院することになりました。

ボクにはこんな風に見えていました
当時のボクには病院もこんな感じに見えていました
入院一日目、何とか自殺しようと考えてタオルで首を吊ろうと思いましたが、太っているので首周りの肉が多く、タオルの長さが足りず断念。
そもそも、精神病院の病室(特に最初に入れられる病室)はそういう事ができないように、タオルなどを引っかける場所がありません。
なんというか、小綺麗な独房といった感じの部屋なのです。
ならば、

と、思いっきり自分の舌を噛み切ろうとしたのですが…
ボクは大切な事を忘れていました。
そうです。

噛めないんですわ
その時のボクは、前歯が2本折れているため、どんなに頑張っても自分の舌を噛むことができませんでした。
その後、お酒と精神安定剤の離脱症状が出たために幻覚が見え(壁や天井一面に爪で引っ掻いたような文字で「助けて…」「ここから出して…」などと書かれているように見えました)て暴れ、ベッドに丸3日拘束され、尿道に管を通され、おむつを履かされ、看護師さんにおかゆさんを食べさせられました。
その時は、心の底から、本当に、本当に…

と思いました。
それからしばらくして、拘束も解かれ、独房みたいな部屋から大部屋に移される事になりました。
同時に本の持ち込みが許可されたため、元々読書好きだったボクは

との一心で、病室のベッドで様々な本を読み漁るようになりました。

読書を趣味にしていて本当に良かった
自己啓発、精神医学、メンタルトレーニング、少し怪しい系の本…。
基本的に精神病院では食事と入浴以外はほとんどすることがなく、時間はたくさんあったので、ありとあらゆる本を軽く200冊以上読みました。
そして、その中の一冊があのTestosteroneさんの
「筋トレが最強のソリューションである」
という本だったのです。
ボクにとって、その後の人生を変えてくれる事になる「運命の出会い」でした。
ジムに入会(1回目)

こんなジムならよかった
ところが、実は1回目の退院時に入会したジムは、2~3回通っただけで挫折しました。
やはり

という経験は、ボクの心(だけじゃなく差し歯入れてるとは言え前歯二本折れてますし)にとてつもなく深い傷を残していました。
そうこうしている内に、ボクは再び徐々に精神安定剤とお酒・食べることに逃げるようになりました。
そして、遂には業務用の4リットルのウイスキーをラッパ飲みして倒れ、一度目の入院から1年ほどして、またしても精神病院に入院することになりました。
精神病院に入院(2回目)
2回目に入院した時に、大部屋であるおじいさんと一緒になりました。
そのおじいさんは歯が一本もなく、恐らくボクより酷いアルコール中毒で、くたびれた姿で

とニタニタ笑っていました。
臭いし、いびきはうるさいし、正直「鬱陶しいな…」と思いながらも「ハッ」としました。

そこでボクの中で「カチッ」っと、スイッチが入りました(本当に音が聞こえました)。
そして、決意しました。

弱い自分に立ち向かう

と。
1回目の入院時は看護師さんが心配するくらい病室にこもり、本を読むか寝てばかりいたのですが、2回目の入院時にそのおじいさんに出会ってからは毎日廊下を1万歩以上歩くようになりました。
次第に歩くだけでは物足りなくなり、階段を上り下りしたり、病室でスクワットや腹筋をするようにもなりました。
先生に

と聞かれても、

とキッパリ言い張りました。
正直、先生は訝しげでしたが、ボクの決意は揺らぎませんでした。
その後も病院でトレーニングを続け、3ヶ月弱の入院生活で3~4kgくらいのダイエットに成功しました。
この小さな成功体験が、その後のジム通い・ダイエットを勢いづけてくれたと思います。
ジムに入会(2回目)

2度めの入会
2回目の退院後、ボクは再度ジムに通い始めました。

実際の会員証写真
1回目に入会した時と同じジムだったので、最初は少し恥ずかしかったですが、もう以前のボクとは違います。
そのジムはマシンも少なく、小さいダンベルラックがぽつんとあるだけでパワーラックやスミスマシンもありませんでした(ボクが退会する直前にやっとスミスがひとつ置かれました)が、そんな中でもボクはとにかく夢中でトレーニングしました。
くじけそうになっても、

と自分を奮い立たせました。
お酒の量も減らし、食事にも気を遣うようになりました。
そうしてトレーニングを続けるうち、次第に体つきが変わっていき…

人生の夜明けぜよ!
遂には2年半で25kgのダイエットに成功しました。
変わったのはカラダだけではありませんでした。
ダイエットに成功したおかげで自信がつき、あれだけ嫌いだった自分のことも大好きになり、いつの間にか

になっていました。
そのおかげですっかり筋トレにハマってしまい、今ではボディメイクコンテスト出場を目指すまでになりました。
ボクの人生における最重要課題であった、「メンタルを強くするためにはどうすればいいのか」の答えがやっと見つかったのです。

答えは一冊の本の中に
まさかボクもその答えが、

ことだとは思いませんでしたが、その事を教えてくれた「筋トレが最強のソリューションである」の著者であるTestosteroneさんはもちろん、生きる希望を与えてくれた筋トレやフィットネスそのものに、心から感謝しています。
最後に
じつは他にも、
- 市議会議員だったおじいちゃんが生活保護になったり
- ダイエット成功後におつきあいした彼女が1回のデートに7万円かかる女の子だったり
と、それだけでスピンオフがつくれそうなエピソードがまだまだあるのですが、ここでは省略します。

新しい景色を眺めるのは楽しい
ボクは元々メンタルが弱く、今まで色々なことから逃げてばかりいました。
しかし、もう絶対に逃げません。
ボクは自分の人生をかけて自分のカラダを鍛えることを極めます。
ボディメイクコンテストも出場するからには優勝します。
現在日本では、若い世代に自殺を考える方が増えています。
そんな方々に


と、1人でもたくさんの方にフィットネスや筋トレに興味を持ってもらいたいのです。
ボクはそのためなら、いくらでもピエロになります。
一度死んだつもりでいるので、怖いものなんてありません。
ボクはこの使命を果たすために、

と本気でそう思っています。
長いプロフィールを最後までご覧いただき、ありがとうございました!
さぁ、ボクと一緒に…

筋肉料理研究家Ryota プロフィール詳細

プロフィール詳細
- 本名:大里 亮太
- 調理師免許
- NSCA-CPT(National Strength and Conditioning Associaiton 認定パーソナルトレーナー)
- ネクストフーディスト4期生
- 第1期株式会社オーカワ・美芳野庵公式アンバサダー
- 第2期おおいたクッキングアンバサダー
- クラシルクリエイター
- 筋肉食堂オフィシャルパートナー
- 特許技術の乳化デバイス・CLOSER公式アンバサダー
- 料理のヒントメディア・レシピルにてレシピ連載
- アウトドア情報サイト「BE-PAL(ビーパル)」にてレシピ記事執筆
- 野菜のレシピサイト「nomina」にてレシピ記事執筆
- お取り寄せサイト「めりぃな」アンバサダー
- YouTubeチャンネル【俺の人生裸エプロン】
- 最終学歴大阪NSC30期中退
現在企業・他メディアにも多数レシピを提供中。